大分市中心部に現存する明治時代の洋風建築です。 東京駅丸の内駅舎の設計で有名な辰野金吾さんと片岡安さんの辰野片岡建築事務所によって設計されました。ランタンを持つ八角形ドームの屋根は「辰野式ルネッサンス」の特徴といわれます。 内装は改築されていますが、建築当時の姿を忠実に復元された外観は、明治建築…
開基者の豊岡清人は、寛永14年(1637)6月9日島原の乱のとき、征討のため九州に下り、翌年2月、乱は鎮圧されました。 この時、出家の意思強く、遂に真宗に帰依し、兼通と改名されました。 木佐上に来て、慶安3年(1650)8月14日、一宇を創立しました。 享保元年(1716)に8世製秀法師が…
大分市内にある「豊後国一の宮」の一つです。 平安初期の天長4年(827年)を創建の起源とし、古来より、宇佐神宮の分霊地として国司・武家などから崇敬された由緒ある神社。 安政年間に再建された本殿は見事な八幡造です。 1866年(慶応2)再建の南大門には、古今の聖人や竜、花、鳥などが刻まれ…
桜の名所としても知られ、毎年約60本ものソメイヨシノが咲き始めると、花見客で賑わいます。 満開の時期に城址の石垣に上ると、桜が絨毯のように広がって見えます。 多目的トイレも完備されています。
肥後藩主加藤清正公が、関ヶ原の戦功により授かった豊後鶴崎と熊本を結ぶ肥後街道です。 後に肥後藩主の細川公も参勤交代の道として利用しました。 その一部である石畳の道が今市に現在も残っており、当時の面影を色濃く残しています。 通称「今市の石畳」は、豊後岡藩の宿場として中川氏によって設けられ…
初代の名通上人が15歳のとき、父親順信と共に船で門司に向かっていたが、風波のため、佐賀関の古宮に上陸、古宮のお宮に参拝し、名通上人はそのまま当地に残り住みつき、元和元年(1615年)に父親順信が建てた沖ノ島の徳応寺を佐賀関に移し再建しました。 幕末期には、坂本龍馬、勝海舟の一行がこの寺を訪…
戸次川の古戦場跡には、武将・長曽我信親(ちょうそかべ のぶちか)の墓があります。旧存の碑が破損したため、西村亮吉(元 大分県知事)が新しく建設したものです(明治22年建立)。
佐賀関の半島の先の方に関崎海星館があり、さらに突端に関崎稲荷神社と灯台があります。 その灯台の近くに、関崎地蔵はあります。 養老年間(717~724年)に、役小角(えんのおづぬ:修験道の祖)により航海安全を祈願して祀られたことから「波除地蔵」の名があり、また「地蔵崎」とも呼ばれています。…
大分川流域で最大規模の小円墳です。 6世紀後半から7世紀初頭に造られた古墳で、横穴式石室内には家型石棺が安置されています。 大変貴重な古墳で、県指定史跡です。古墳は羨道部が長さ4m、幅1.7m、高さ1.5m、玄室は奥行2.5m、高さ2.1m。 大分市指定名木のムクノキが丑殿古墳(丑…
日本でも数少ない海の上の国道を往来します。 九州と四国の国道を結ぶことから名づけられた社名が 「国道九四フェリー(こくどきゅうしフェリー)」です。 九州の佐賀関と四国の三崎を最短航路で結び、 1日16便70分間で運行します。 佐賀関のターミナルビル1階には、売店があり出発前に大…
長曽我部信親は、安土桃山時代の武将で、土佐国の戦国大名である長曽我部元親の嫡男です。 天正14年(1586)12月、豊後へ侵入した薩摩の島津家久の軍勢と、豊後を死守しようとする大友宗麟・義統父子による戸次川の戦いがありました。 大友宗麟を助ける豊後・四国連合軍には、長曽我部元親・信親父子の他…
「白黒と 争う碁洞(ごとう)劫ノ浦(幸之浦) 波より他に 打つ人なし」の句です。 肥後の殿様がこの碁石の浜で詠ったといわれるもので、白黒の碁石浜の地名をうまく織りこんで詠っています。