
キリシタン大名、大友宗麟を知っていますか?
約450年前、現在の大分県、豊後国(ぶんごのくに)を治めていた戦国大名で、南蛮貿易を始め、日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルを迎え、その後の九州、日本に影響を与えた大分市の誇る偉人です。有力な大名が天下統一をめざしていた時、宗麟はアジア、そしてヨーロッパとの交流を目指していました。そして府内(大分)は、西洋の医学、音楽、演劇などの発祥の地となったのです。
ザビエル、Funaiへ
宗麟21才の頃、豊後の国づくりのためにもっと世界の情報を手に入れようと、山口にいたザビエルを府内(現在の大分市)に招きました。宗麟はザビエルを歓迎し、さまざまなことを聞き、府内でキリスト教を広めることを許可しました。ザビエルは2ヶ月間府内で布教し、インドに旅立ちました。その時、宗麟はポルトガル国王あての親書を持たせたと伝えられています。
キリスト教の保護
宗麟は、ザビエルの計らいで府内に来た宣教師に土地を与えました。彼らは宗麟の援助のもと、そこに教会や病院を建て、積極的に布教しました。コレジオ(宣教師を育てるための学校)もつくり、外国人や日本人に外国語や理科、音楽の授業を行いました。宗麟自身も48才のときに信者の一人となり、フランシスコという名前をもらっています。
Funaiからヨーロッパへ
府内で活動していた宣教師は、そんな宗麟の姿を「Bungo(豊後)王」としてヨーロッパに伝えました。このころ、宗麟らがヨーロッパに派遣した「天正遣欧少年使節」が、各地で大歓迎を受けたことから、ますます宗麟の名は知られるようになります。そして九州の「豊後」もその王が治める特別な地として紹介されたのです。
先見の明を持った大友宗麟
戦国時代の中で、海外から宣教師を受入れ、いろいろなものを吸収し、広くキリスト教の布教に尽力した大友宗麟は、許容力、包容力を持った、先見性のある人だったといえるでしょう。
そんな大友宗麟や南蛮文化の足跡をたどる観光コースをぜひ歩いてみてください。