
古来、人が住めば、「せど道、小道」による往来が行われ、往還と呼ばれました。人馬、文物、多様な目的を持った通行道を街道と呼び、徳川第三代将軍家光の時代、寛永13年(1635年)武家諸法度が発布され、古代からあったと思われる要路が、参勤交代の道として整備され肥後藩主等が使用していました。このような街道を坂本龍馬、勝海舟が駆け抜けています。
幕末、文久4年(1864年)オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の下関砲撃中止の交渉のため、幕府から長崎出張の命を受けた勝海舟は、海軍塾の塾頭である坂本龍馬を連れ立って神戸を出帆し2月15日に佐賀関に上陸、佐賀関の徳応寺に宿泊、佐賀関街道を通って、翌16日は鶴崎に宿泊、肥後街道を通って17日には野津原に宿泊し肥後街道を通って、熊本に行き、その後長崎に向かっています。
海舟日記によれば、佐賀関において「15日 5時 豊前、佐賀関、着船。即ち徳応寺へ止宿す。」
鶴崎において「16日、豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より5里。此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う。山川水清、川口浅し。」とあり、次の句を残しています。
「大御代はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎」
野津原においては、「17日、野津原に宿す。五里、山の麓にて、人家可ならず。八幡川あり、大低一里半ばかり、川堤に沿うて路あり。海道(街道)広く、田畑厚肥、桃菜花盛、」とあり、次の句を残しています。
「民のかまどゆたけきものを、しらぬいのつくし生うてう野津原のさと」
また、佐賀関に上陸した際、坂本龍馬一行が宿泊した徳応寺の第10世住職東光龍潭が「日本人物誌」の中で乗船のスケッチも含め、詳しく記録に残しています。


土佐出身の志士。維新回天の原動力になった薩長同盟を導いたことで知られています。茫洋たるまなざしを持った色黒の大男であったといわれ、中岡慎太郎とともに京都の宿泊先で暗殺されたのは王政復古の大号令が発布されるわずか一ヶ月前のことでした。


幕末のもっとも開明的な幕臣。渡米して見聞を広め、海軍の育成に努力し、江戸開城にあたっては西郷隆盛と会談しました。歴史的な無血開城を実現させて、維新後は旧幕府の歴史など著述に余生を過ごしました。「氷川清話」「海軍歴史」などがあります。


大分市鶴崎出身の儒学者(教育者)、毛利空桑を師として漢学を修め、さらに平戸の光明寺で宗学を学びました。のちに泉州の高僧勤学に師弟してその奥義を極め、また、俳句・茶道・雅楽・香道・華道・琴・書画などの道も究めました。中でも俳句は大阪の八千坊という芭蕉の流れを汲む流派の高弟で皆伝を受け、雅号を「吟松」と称しました。
日本各地の文化人と交流し、寺を訪れる名士が後を絶たなかったといわれています。

日本人物誌「東光龍潭著」
(徳応寺所蔵)

文久4年(1864)2月15日に勝麟太郎(勝海舟)が蒸気船長崎丸にて上陸した記述とスケッチ


長崎からの帰りとみられる1864年4月10日に勝麟太郎(勝海舟)一行が宿泊したときの記述(左)一行の名簿の中に坂本龍馬の名前の記述(右)